『戦争の技術』全訳

Niccolò Machiavelli, Le grandi opere politiche, a cura di Gian Mario Anselmi e Carlo Varotti con la collaborazione di Paolo Fazion ed Elisabetta Menetti, Volume primo, Il Principe, Dell’arte della guerra, Bollati Boringhieri, 1992

 

 フィレンツェ市民でありフィレンツェ国書記官ニッコロ・マキァヴェッリがフィレンツェ貴族、ロレンツォ・デイ・フィリッポ・ストロッツィ閣下に捧ぐ

 

ロレンツォ閣下、多くの人たちはこれまで次のような見解を持ち、また今も抱いています。すなわち市民生活と軍隊生活ほど、互いに関係がうすく、かけ離れたものは他にはない、と。ですから、誰かが軍隊で高給をせしめようともくろむと、たちどころに衣装をとり変え、そればかりか素行、習慣、声、容貌さえも、あらゆる市民生活の流儀とは異なったものにするのをしばしば見かけるわけです。というのも、どんな暴力行為にでもとっさに対応しようとする輩は、市民的服装に身をつつむことなどふさわしくない、と信じ込んでいるのです。それに、市民にふさわしい習慣などは人を虚弱にするばかりで、そのしきたりなぞは自分の仕事とは相容れない、と思っているこうした輩には、市民的な習慣も、しきたりも守れるものではないからです。髭と口汚い言葉で、他の人たちを脅そうとする輩には、普通の身なりをしてふだんの言葉遣いをすることが好都合とは思えない。このようなわけで、今日、先にあげた市民生活と軍隊生活についての見解が真実であるかのように流布されています。しかしながら、古代の諸制度を考えてみれば、当然とはいえ、市民生活と軍隊生活ほど互いに親和し、似通い、一体となっているものは他に見あたりません。というのも、すべての仕事は、人びとの共通善を図らんがために、市民生活のただ中で制度化されており、またすべての制度は、法と神を畏れて生きんがために作られたものなのですが、そのいずれも自国民による防衛力が準備されていなければ、甲斐のないものとなってしまうからです。防衛力こそ見事に配備されれば人びとを支え、たとえまとまりを失った人びとにとっても、その後ろ盾となる。逆に言えば、良き諸制度でも軍事力の助けがなければ崩壊するばかりです。それは、宝石や黄金をちりばめた絢爛豪華な宮殿の住人たちが、屋根がないばかりに、いざというとき雨を凌ぐ手だてを持ち合わせないのと同じです。ですから、いくつかの都市や、王国に見かける他のどのような制度でも、人びとが信義にあつく平和を好み、神への畏れで満たされ続けるよう、あらゆる努力が払われてきたのですが、それが軍隊においては二重にかなえられます。というのも、祖国のために死を覚悟した人以上に、いかなる人間により多くの信頼を置けるというのでしょうか?戦争そのものによって傷つけられる人以上に、誰がさらなる平和を慈しむものでしょうか?毎日、無数の危険にさらされながら神のご加護を是非とも必要とする人以上に、いったい誰に神への強い畏れがあるのでしょうか?こうした必然性を、軍事力を統制する政治家、それに軍隊の指導的立場にある面々が充分考えられたならば、かの古代の人びとによってなされた軍隊生活は賞賛に値するものとして必ず研究され、追従模倣されていたはずなのです。ところが、長い年月の間に軍事制度はまったくに腐敗し、古代の流儀とかけ離されたため、軍隊とは憎むべきもの、軍事力を行使する連中との関わり合いなど忌避すべきもの、といった誤った見解が生じてしまった。そこでわたしは、この目で見、読み解いたことから、古代式の軍隊を甦らせ、そこに古の勇武(ヴィルトゥ)をいくばくかでももたらすのは不可能ではない、と断ずるに至ったのです。そのため、わたしは公務を退いた時間を無為に過ごすことのないよう、古代の事蹟の愛好者である方々に満足いただくためにも、戦争の技術について、わたしの理解するところを書き記す決心をしたのです。他に話もまともに取り組んだことがない題材について書き著すのは大胆なこととはいえ、わたしは、多くの輩がはなはだしい思い上がりから実際に行なった歩みを、言葉でたどることに間違いがあろうとは思いません。なぜなら、書き留める最中にわたしが冒す多くの過ちは、誰も傷つけずに修正できるわけですし、かたや、多くの輩によって為されてきた事をそのまま実行してみて判るのは、国の支配権の崩壊以外にはないのです。

  ロレンツォ閣下におかれては、こうしたわたしの苦労の何たるかをご賢察いただき、閣下のご判断により、相応と思われる非難なりお褒めの言葉を、この労作にお与え下さいますように。

わたしの能力が至らずとも、閣下から授かったご厚誼に感謝するため、この労作を閣下にお送りするものです。というのも、身分の高さ、財力、才知、寛容の点で際だった方々は、こうした著述を尊ばれるのが習わしとはいえ、それこそわたしは財力、身分の高さの点で閣下に並び立つ者がほとんど存在せず、才知の点では稀、寛容の点ではどなたもおられないことを知るからなのです。

 

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第一巻

 

  いかなる人であれ、亡くなられたからにはとやかく言わずにほめ讃えるものとわたしは信ずるが、おもねるような態度は微塵も見せられぬ方だったからこそ、我らがコジモ・ルチェッライ1  を是非とも賞賛したいと思う。その人の名は、わたしにとって涙なくして到底思い出されるものではない。彼には、仲間たちがよき友に望み、彼の祖国が一市民に求めうる、さまざまな美質が認められるからだ。というのも、彼自ら進んで友人たちと交わる時間もわずかとなったため、わたしは彼の愛着が何なのかを(他でもなく、彼の魂も含めて)知っているわけではないからだ。それに、いかなる事業が彼を当惑させたものか、またどこに彼が祖国の善を認めていたのかも、わたしは知らない。が、正直に告白すれば、わたしの知己で親交のある多くの人たちの中でも、〔彼ほど〕大問題をめぐってそれは澄刺とした精神を示す人物に、これまでお目にかかったことがない。

 

  自分の臨終に際して彼は、次の点を除けば、友だちに不平をかこつことはしなかった。すなわち、若くして自分の屋敷内で死すべく生まれたこと、自分の意志どおりに他人の役に立とうとしても、それは出来ずじまいで栄誉とは無縁であったこと、がそれである。というのも、彼は一人の良き友が死んだということ以外に、誰も彼自身について他に話しようがないことを承知していたからである。だからといって、われわれやわれわれと同じように彼を知る者は誰であれ、仕事がなされていないことを理由に、賞賛に値する彼の資質を疑うわけではない。

 

  実のところ、彼にとって運命はまったくの敵であったのではなく、たとえば愛の詩句で綴られた彼の筆になる、いくつかの作品が示すように、彼の才知の妙を伝える短い作品もないわけではない。そこでは、実際に彼が恋に陥ったわけではないにしても、時間をむだにせず、彼の若さにしてその才が働いたからこそ、運命(フォルトゥナ)がより高い詩想に彼を導いたほどである。またそこには、見事なまでに書き表された彼の想念を誰もがありありと理解できるばかりか、彼の仕事としてその才が遺憾なく発揮されたならば、彼は詩作の栄誉につつまれていたはずである。ところが運命が、一人の才知ある友の能力をわれわれから奪い去ったため、われわれに努めてできる最善のことは、彼を追憶して、彼によって鋭く論評され、賢明に論じられた事を想起する以外に手だてがない、とわたしには思われる。

 

  というのも、彼にまつわる鮮明な思い出といえば、少し前に彼のオリチェッラーリの園でファブリツィオ・コロンナ2  殿が彼と交わした議論にまさるものはないからだ(そこではファブリツィオ殿が戦争にかかわる事を幅広く語られ、その大半について思慮深く的を得た質問が、コジモ閣下によってなされた)。他の仲間と一緒にその場に居合わせたわたしは、その彼を記憶に留めようと思う。この回想録を読まれるならば、そこに集ったコジモ閣下の仲間たちは、改めて彼の力量(ヴィルトゥ)の思い出を胸に蘇らせるだろう。また居合わせなかった人びとは、かたや同席しなかったことを残念がるにしても、一方でこの実に知恵に恵まれた人物が賢明に論じてくれた、ただ単に軍事ばかりか、市民生活にこそまつわる多くの有益なことを学ばれるはずである。

 

ファブリツィオ・コロンナ殿はロンバルディーアの地で長い間カトリック王フェルナンド3  〔五世〕の下で軍務に服し、大いなる栄達を極めていた。その彼が当地を去るにあたって、フィレンツェに立ち寄り、この町で数日間滞在しようと心に決めたのである。というのもウルビーノ公、ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ閣下4  に拝謁し、以前から何がしかの親交を結んでいた君侯連にも再会しようと思ったからだ。こんなわけでコジモ閣下は、自分の庭園にファブリツィオ殿を招待する好機到来、と想いついた。自分の気前のよさを知らしめるよりも、誰もが望むように、ファブリツィオ殿のような人物とゆっくり差し向かいで話をしながら、いろいろな事を学びたいと思ったからだ。コジモ閣下は、自ら心ゆくまで戦争をめぐる議論に一日が費やせる機会、と思われたのである。

 

  こうして、彼の望んだようにファブリツィオ殿はやって来た。そしてコジモ閣下のほか、いく人かの盟友たちに歓待された。盟友の中には、ザノービ・ブオンデルモンティ、バッティスタ・デッラ・パッラ、それにルイージ・アラマンニ5  がいた。みな年も若く、コジモ閣下の寵愛を受け、関心も同じく研究に熱心そのもの。彼らの麗しい資質は、毎日毎時間、彼ら自身で理解しあっているから、ここでは省略する。つまるところファブリツィオ殿は、時節と場所柄にふさわしく、またとない尊敬を一身に受けられたのである。

 

さて、楽しい饗宴が一段落し、食卓が片づけられて会も滞りなく終ると、ファブリツィオ殿は、貴重な考えを聴こうとする貴族の若衆を前にして、にわかに疲れてきた。コジモ閣下は、陽も長くたいへん暑いので、自分の望みをかなえるためにも暑さを避けるべく、庭園のもっとひっそりと奥まった辺りに場所を移すのがよい、と判断した。そこにみなが移動して席を求めると、ある者はその辺りでもっとも涼しい草の上に座り、またある者は一番高い木々の蔭にしつらえられたベンチに腰かけた。すると、ファブリツィオ殿はいい場所だと褒めたのであった。彼はことのほか木々に注意を向けたが、そのいくつかは何の木か分からなかったため、考え込んでいた。

 

  そんな様子にコジモ閣下は気がつくと、次のように言われた。「これらの木の何本かをたまたまあなたは、ご存知ないようですが、不思議でも何でもありません。そのうちのいくつかは、今日一般にそうであるよりも、古代人がとくと鑑賞した木々ですから。」そしてコジモ閣下はファブリツィオ殿に木の名前を告げ、祖父のベルナルド・ルチェッライがいかに庭木に打ち込んでいたかを話すと、ファブリツィオ殿はこう答えた。「貴君の言われたようなことではないか、とわたしも考えておったのです。こうした場所も、庭木へのこだわりも、わたしにはナポリ王国の君侯方を思い出させてくれる。かの面々も、このような古代の教養には通じており、木陰を愉しんでおったものです。」

 

  ここで話は途切れてしまい、彼は何かためらうようであったが、次のように続けた。「わたしは誹謗しようなどとは毛頭思ってはおらんのだが、その古代とやらについてのわたしの意見を述べるつもりでいる。こうした話を友らと交わすとしても、中傷するのではなく、議論をするのが目的なのだから、誰も傷つけはしないからな。たとえば、その平和愛好家の人々であれ、繊細で柔和な面ではなく、厳しくも強靭な面で古代人を模倣しようというのであれば、それはよくやったということになろう。つまりは、日陰ではなく陽の下でなされたことを、過ち腐敗した古代のやり方ではなく、まったき真実のやり方を真似るというならばだ。というのも、繊細で柔和な物事の追求を、わがローマ人が好んでから、わが祖国は崩壊してしまったのだ。」これに対してコジモ閣下が答えた。ところで、「ある人がこう言った」とか「誰それがこう切り返した」と何度も繰り返す煩雑さを避けるため、相手を示さず話し手の名のみを記すことにする。そこで対話は以下に続く。

コジモ

  あなたはわたしが待ち望んでいた議論に筋道をつけて下